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「ボルベール<帰郷>」

ボルベール<帰郷>」(Volver:2006年西)を観てきた。観逃したと思っていた作品は、下高井戸で観るに限ります。

ペドロ・アルモドバルの映画を観るのは「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」に続き3作目。たぶん、この監督の中ではソフトな部類の作品しか観ていないんだろうなと思うが、3作通して実感するのは、ストーリーテリングの巧みさと、表面上の明快さとは裏腹に、人間のどろどろした部分が渦巻くような奥底。

(以下、ネタバレあり)

この作品、全国公開時に観逃した理由のひとつは、ちらっと見聞きしたあらすじがひっかかってしまったためだった。“亡くなったはずの母親が現れる…。”私はいわゆるゴーストもので泣かせるストーリーが大嫌いなのだ。死んでしまった人にまた会いたい、誤解を解きたい、できることならもう一度やり直したい…ひとのそんな切実な思いを利用して安易に泣かせようとする映画が嫌なのだ。現実には、死は絶対的なものであり、いつ訪れるか分からないものであり、取り返しのつかないものだというのに。死んでしまった人が戻ってくることなんて決してないというのに…。だから、序盤は、映像に引き込まれながらも、どうなのかなぁともやもやした思いがまとわりついていたんだよね。ところが、これがねぇ。違うんだもんね。いやあ、母親役のカルメン・マウラがあんな笑っちゃう姿で出てきた時から何か違うなとは感じていたけどね、なるほど納得。

このストーリー、文句なくよくできている。脚本に隙がないというか。観終わった後に、そういえばアレは何だったの?アレはどうなるの?という映画も少なくない中、伏線の全てがきれいに処理されていき、気持ちがいいことこの上ない。見せ方も巧いよね。なかなか複雑に入り組んだ人間模様が展開されていくのだけれど、ごちゃごちゃした分かり難さが全くなくて。観ている側に、自然と少しずつ真相が分かってくるような仕組みになってる。程よいユーモアの効かせ方もいい。元々激しく重い話なんだけど、エグくなるギリギリのところで、飄々としたおかしさがこみ上げてくるような。大体、死んだはずの母親の存在に気づくきっかけがオナラの臭いというところからして生活感ありすぎでしょ。

キャストがまた、文句なしの上手さ。主演のペネロペ・クルスは、荒んだ生活でもふてぶてしく生きてる感じが本当によく似合う。(そういえば彼女は「ブロウ」でも、セレブ姿より落ちぶれてからの方がずっとリアルですごかった。)しかし、個人的にペネロペ以上に圧倒されたのは、ご贔屓アレックス・デ・ラ・イグレシア作品での活躍もすんばらしいカルメン・マウラ。この母親役に現実味や説得力を持たせることって、とても難しいはずなんだけど、それを易々とやってのけて笑いまで提供してるんだから、この人は本当に偉大だなぁと。すごいもの見せていただきました。

以上は、この映画の表面的な感想。

実を言うと、それ以上深くは入り込みたくないと、頭の中でブレーキがかかっている。だって、あまり深く考えると、自分自身が抜け出せない深みにはまってしまいそうな生々しさがあって。なんだか、自分が心の奥に追いやっていた嫌な思いまでボルベールしちゃいそうな気がするんだよね。別に自分が、この映画の女たちのように酷い目に遭ったことがあるというわけじゃないけれど。だけど、女であることがそんなにも過酷なのはどうしてよ?女だからって、こんなに重いものを背負って生きていくって…考えたら、やり切れない気持ちになってしまう。

もちろん。この映画に描かれるのは、虐げられた女たちじゃない。どんな状況でもしたたかに生きていく女たちの、生命力を讃えた作品。だけど、息苦しく思ってしまうのは、“アルモドバル映画の女たち”が強いだけでなく、“女という存在”そのものが、かように強くたくましいとアルモドバルが信じ込んでいるように感じられるところで。一応女のはしくれである自分としては、これには居心地が悪くもなる。女だからってどんな目に遭っても強く生き抜けるわけじゃないし、女がみんな連帯して生きているわけでもありませんって…。アルモドバルの押しの強い女性讃歌には、強く生きられなくてゴメンナサイ、といたたまれない気分になってしまうのだ。

心に残るのは、作品の主題ともいえる“Volver”が歌われるシーン。偶然にも同年公開されたアキ・カウリスマキの「街のあかり」で、やはり印象的に使われていた曲。同じ曲でも、それぞれのカラーに染まってこんなに印象が変わるもんだなあ。
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