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「トランシルヴァニア」

トニー・ガトリフ監督の「トランシルヴァニア」(Transylvania:2006年仏)を観た。

えらく濃いいもんを観てしまった。というか、聞いてしまったというか。この映画、至るところでむき出しの“生”が叫び声を上げている。慟哭、歓喜、音楽までも。

叫ぶ女、アーシア・アルジェント。大地が割れそうなほどに、激しく叫ぶ。愛する男をフランスからはるばるトランシルヴァニアまで追ってきて。失われた愛に絶望して。道で出会った少女を追って。お腹に宿した子を産み落とそうとして。ド迫力の荒々しさ、圧倒的な存在感。そのわりに、愛した相手は平々凡々な男で、これじゃあ彼女についていけずに逃げ出すよな、と納得してしまう。本作は、一応、ガトリフ初の女性が主役の物語とのことだが(一応、という理由は後述)、堂々たる主役っぷり、恐れ入りました。

そんな女をいつしか追っている男、ビロル・ユーネル。この人、めっちゃ好みなんだけど。わりと最近観たファティ・アキンの「愛より強く」は、ビロルに惚れすぎて作品がまともに観れなかったくらい。またしても、破天荒な女に振り回される役なんだけどねぇ。「愛より強く」のリスカ女は正直好かんかったが、今回のアーシアとビロルはいい。女の強さ、激しさをそのまま受け入れる度量のある男。深い孤独に共鳴し合えるふたり。

大抵、ガトリフの作品には、ロマの世界に属する者(例:「僕のスウィング」のスウィング、「ガッジョ・ディーロ」のサビーナ)と、その世界に憧れて入り込もうとするよそ者(「僕のスウィング」の僕、「ガッジョ・ディーロ」の主人公)が出てくる。しかし、その世界はよそ者を容易に受けつけない。ガッジョ・ディーロの彼のように歩み寄れる例もあるけれど、とりあえず、観ているこちらとしては、足を踏み入れようとすると目の前で扉を閉ざされてしまうような感覚がある。共感したくても拒否されてしまうような。アルジェリアのロマの血を引きフランスで育ったガトリフ自身は、両者の世界を行き来できる人物のはずなのだが、どうも、俺たちロマの世界は所詮ガッジョ(よそ者)には解らんよ、と考えている節があるような気がする。今まで、それがちょっと苦手だった。

ところが、今回の女は、フランスからやって来て、トランシルヴァニアでロマに“なる”。ガトリフの近作をいくつか見逃しているので断言はできないが、ロマに生まれずともロマになれる、という発想はこれまでのガトリフのスタンスからすると新しい気がして、興奮を覚えた。本作では、女も男も、ロマのコミュニティーにすら属することができない(ロマの少女にあっさり去られる女、ロマ楽団から諌められる男…)孤立した存在となっている。マイノリティとしてのロマに関心を寄せ続けたガトリフが、さらなるマイノリティ、究極の流れ者に目を向けたかのような。

ただし、女がロマになった時から、物語の流れは変わる。女はどこか手の届かないミステリアスな存在となり、視点は、女を追う男の方に完全に移ってしまう。(だから、女性が主人公、というのは後半になると当てはまらない気がする。)ロマの女に惹かれ、遠ざかっていく彼女を追う男は、またもガッジョ・ディーロ的な存在になってしまうようで。それは、ガトリフの中に、やはりどこか、ロマの世界をガッジョから遠ざけておきたい、という思いがあるからなのか…。

だけど、ラストシーンを見てふと思ったこと。ロマ、マヌーシュ…そもそも、“ひと”という意味ではなかったか。ならば、普遍的に捉えることも許されるんじゃないか。人は本質的に、自分の謎めいた部分を相手に見られまいと逃げ、相手の謎めいた部分に惹かれて追っていく、そういう哀しい存在であると。だからこそ、この人になら追いつかれてもいいという気持ちと、どこまでも追っていきたいという気持ちが奇跡的に重なり合う瞬間こそが、愛の成就なんじゃないかと…。

それにしても、驚きました。ルーマニアの酒場で、まさかのカントリー・ベア。
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