Storytellers Cafe

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「太陽に恋して」

…1ヶ月以上投稿がないとトップに広告が出てしまうというのは、元々1ヶ月に1、2回書けばいいやというスタンスの者にとっては余計なプレッシャーをかけられてるみたいでなんか嫌なんですけど。ブログ引越し考えるか。しかし面倒だなぁ。…愚痴ブログになったんかここは。

DVD化されないのかしらと思っていたらいつの間にか出ていた、ファティ・アキン監督の「太陽に恋して」(Im Juli.:2000年独)。

「クロッシング・ザ・ブリッジ」「愛より強く」を観て、私はこの監督とはあまり相性が良くないらしいと気づいたんだけど、それでもこの作品はどうしても観たかった。理由はこれだけ。「黒猫・白猫」のイダねーちゃんが出てるだよ。イダねーちゃんことブランカ・カティチ、今一番好きな役者さんの一人です。流石、こういうところは外さないファティ・アキン、期待通りの使い方をしてくれました。ひでぇ役だけど。初登場シーンから、“EX”YUの殴り書きも眩しいおんぼろヴァンを飛ばしてやってくる姉御、かっちょええー。同じくブランカ・カティチ目当てで観たアンソニー・ミンゲラの「こわれゆく世界の中で」に心底がっかりさせられた後だけに、アキン監督のサービス精神は相当うれしかった。(…姉御の登場シーンでBGMがウッハッとか言ってるのはいささかやりすぎな気もしましたが。)そんな姉御の相方としてちょろっと出てくるのがビロル・ユーネルというのがこれまたツボすぎ。顔見せ程度の端役なんだけど、ファティ・アキン、絶対この2人が一緒にいる画が撮りたくてキャスティングしたよね。何なのこの無敵ツーショット。

本筋は、かなりベタな青春系ラブストーリーなんですね。個人的には、主演のモーリツ・ブライプトロイも別に好きじゃないしヒロインにも共感できないし、それよりイダねーちゃんとビロル・ユーネルの話の方が気になって仕方ないわという。なんか、スタイリッシュな演出のわりにストーリーが王道だったり、都合のいい展開が多すぎるのが正直微妙だった。そもそもヒロインの人物設定にリアリティが感じられない恋愛ものって無理かも。「愛より強く」のリスカ女の飛ばしっぷりはあり得なかったが、今回の7月太陽さんも…ちょっとなくないか?こういう現実味のない女の子像って、男にとっての一種のファンタジー?

この作品で、自分がファティ・アキン作品の何が苦手なのか、ちょっと分かった気がする。わざとらしいんだ。例えば音楽シーンが映画の流れをぶちっと止めて、さあ今から歌いまっせと出てくる感じ。幻想的な浮遊シーンが文字通り作中で浮いちゃってる感じ。それから、全く泥臭さのない作風のくせに、THAT'S エキゾチック!みたいな要素をよいしょと入れてくる感じ。何よりそのわざとらしさを全て計算済みで演出しているのが伺えるところが、違和感を覚えるというか、どうも自分の肌に合わないみたい。センスがいいのは認めるけど。ってなぁに上から目線な言い方してるんだか。どういうことこれ。

思うに、今最も有望な若手監督だとかいう世間の手放しの賞賛に少々気味の悪い感じがしつつも、これから間違いなくもっと大きな存在になっていく映画人だというのは自分も納得できるからこそ、厳しい目で見てしまうのかもしれないな。なんだ、嫌味な評論家か私は。だってねぇ。なんだかんだ言って、ファティ・アキンの新作が封切られたら、たぶん観に行くもんなぁ。書いてるうちに、この作品だって結構楽しんで観てた気がしてきたよ。この人の映像のセンスはやっぱり好きだし、多国籍系青春ロードムービーときたら、抗えません。

それにしても、帰り道はどうするつもりなんだ、この主人公。

太陽に恋して太陽に恋して
(2007/09/07)
モーリッツ・ブライプトロイ、クリスティアーネ・パウル 他


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年内はもう映画も観れそうにないので、今年のまとめです。珍しく気になる映画が続々とやってきたわりに、都合が悪かったりで観逃したものが多かった。観に行けたものでは、ずば抜けてコレというのはなかったけど、期待はずれもほとんどなく、平均して良い印象。あえて順位をつけることもないので、心に残った作品名を最後になぜかパネルクイズアタック25っぽく?つなげて文にしてみましょう。「トランシルヴァニア」の「ボンボン」が「サン・ジャックへの道」で見つけた「街のあかり」に照らされた「レミーのおいしいレストラン」。お粗末さまでした。

Have a nice holiday & a happy new year.
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「ボルベール<帰郷>」

ボルベール<帰郷>」(Volver:2006年西)を観てきた。観逃したと思っていた作品は、下高井戸で観るに限ります。

ペドロ・アルモドバルの映画を観るのは「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」に続き3作目。たぶん、この監督の中ではソフトな部類の作品しか観ていないんだろうなと思うが、3作通して実感するのは、ストーリーテリングの巧みさと、表面上の明快さとは裏腹に、人間のどろどろした部分が渦巻くような奥底。

(以下、ネタバレあり)

この作品、全国公開時に観逃した理由のひとつは、ちらっと見聞きしたあらすじがひっかかってしまったためだった。“亡くなったはずの母親が現れる…。”私はいわゆるゴーストもので泣かせるストーリーが大嫌いなのだ。死んでしまった人にまた会いたい、誤解を解きたい、できることならもう一度やり直したい…ひとのそんな切実な思いを利用して安易に泣かせようとする映画が嫌なのだ。現実には、死は絶対的なものであり、いつ訪れるか分からないものであり、取り返しのつかないものだというのに。死んでしまった人が戻ってくることなんて決してないというのに…。だから、序盤は、映像に引き込まれながらも、どうなのかなぁともやもやした思いがまとわりついていたんだよね。ところが、これがねぇ。違うんだもんね。いやあ、母親役のカルメン・マウラがあんな笑っちゃう姿で出てきた時から何か違うなとは感じていたけどね、なるほど納得。

このストーリー、文句なくよくできている。脚本に隙がないというか。観終わった後に、そういえばアレは何だったの?アレはどうなるの?という映画も少なくない中、伏線の全てがきれいに処理されていき、気持ちがいいことこの上ない。見せ方も巧いよね。なかなか複雑に入り組んだ人間模様が展開されていくのだけれど、ごちゃごちゃした分かり難さが全くなくて。観ている側に、自然と少しずつ真相が分かってくるような仕組みになってる。程よいユーモアの効かせ方もいい。元々激しく重い話なんだけど、エグくなるギリギリのところで、飄々としたおかしさがこみ上げてくるような。大体、死んだはずの母親の存在に気づくきっかけがオナラの臭いというところからして生活感ありすぎでしょ。

キャストがまた、文句なしの上手さ。主演のペネロペ・クルスは、荒んだ生活でもふてぶてしく生きてる感じが本当によく似合う。(そういえば彼女は「ブロウ」でも、セレブ姿より落ちぶれてからの方がずっとリアルですごかった。)しかし、個人的にペネロペ以上に圧倒されたのは、ご贔屓アレックス・デ・ラ・イグレシア作品での活躍もすんばらしいカルメン・マウラ。この母親役に現実味や説得力を持たせることって、とても難しいはずなんだけど、それを易々とやってのけて笑いまで提供してるんだから、この人は本当に偉大だなぁと。すごいもの見せていただきました。

以上は、この映画の表面的な感想。

実を言うと、それ以上深くは入り込みたくないと、頭の中でブレーキがかかっている。だって、あまり深く考えると、自分自身が抜け出せない深みにはまってしまいそうな生々しさがあって。なんだか、自分が心の奥に追いやっていた嫌な思いまでボルベールしちゃいそうな気がするんだよね。別に自分が、この映画の女たちのように酷い目に遭ったことがあるというわけじゃないけれど。だけど、女であることがそんなにも過酷なのはどうしてよ?女だからって、こんなに重いものを背負って生きていくって…考えたら、やり切れない気持ちになってしまう。

もちろん。この映画に描かれるのは、虐げられた女たちじゃない。どんな状況でもしたたかに生きていく女たちの、生命力を讃えた作品。だけど、息苦しく思ってしまうのは、“アルモドバル映画の女たち”が強いだけでなく、“女という存在”そのものが、かように強くたくましいとアルモドバルが信じ込んでいるように感じられるところで。一応女のはしくれである自分としては、これには居心地が悪くもなる。女だからってどんな目に遭っても強く生き抜けるわけじゃないし、女がみんな連帯して生きているわけでもありませんって…。アルモドバルの押しの強い女性讃歌には、強く生きられなくてゴメンナサイ、といたたまれない気分になってしまうのだ。

心に残るのは、作品の主題ともいえる“Volver”が歌われるシーン。偶然にも同年公開されたアキ・カウリスマキの「街のあかり」で、やはり印象的に使われていた曲。同じ曲でも、それぞれのカラーに染まってこんなに印象が変わるもんだなあ。

「I WISH...」

ウズベキスタン映画祭で「I WISH...」(1997年ウズベキスタン・日) という映画を観てきた。

この映画祭のことは偶然知って、奇特なイベントがあるもんだなぁと。ウズベキスタン映画といえば、なんといっても「UFO少年アブドラジャン」があるじゃん。ていうかそれしか知らないジャン。映画祭をやるくらいだからきっと他にも有名な映画があるんだね、と思って調べてみたら、やっぱりメイン?はアブドラジャン…。しかも、同じズルフィカル・ムサコフ監督の他の作品も上映されている、ということでちょうど観てこれたのが、NHKが出資したとかいう「I WISH...」。

(以下ネタバレあり)

なんだろうこれ。「アブドラジャン」の成功に乗っかった二番煎じなのか?それとも、ムサコフ監督はこういう映画しか撮らない人なのか。「アブドラジャン」ではUFOという名の鍋が堂々と浮遊していたが、今回は皿が飛びました。まんま、皿。ふとしたきっかけで、願い事を実現させる特殊能力を持っていることに気づいたおじさんの不思議なお話。いってみれば、UFO少年がUFO中年になっただけのような。どこまで天然なのか測りかねる脱力なノリで、どんなに話に無理があっても何のその。のんびり突き進むゆるゆる展開。

しかし、いちいち笑いのツボにはまった「アブドラジャン」と違って、本作はなんか笑えなかったのが残念。「アブドラジャン」の衝撃は大したもんだったから、どうしても二作目は新鮮さが薄れるからかもしれないけど。こう言ってはなんだが、ネタに若干あざとさが感じられてきちゃって、ツッコミを入れる気も薄れるというか。そもそも「アブドラジャン」は、スピルバーグのETへのオマージュという壮絶にバカバカしい前提が効いていたんだけど、本作にはそういう設定上のおもしろさがないしね。あの驚異のローテク映像がほとんど見当たらなくなってしまったのも痛い。バックについてるのがソ連軍かNHKかの違いですかね…。

お話は意外とシリアス。望みをいくらでも叶えることができるという、ほとんど全能の力を持っていることに、ある日突然気づいてしまったおじさん。(それまでの人生でなぜ気がつかんかったんかい!と、ここは軽くツッコミ。)そんな能力があったら人生バラ色やりたい放題、かと思いきや、いろいろ悩みが出てくるんだよね。人の気持ちや生命まで操れてしまうことへの倫理的な抵抗感、世界中で起こる不幸を未然に防がなければという重たい義務感、身近な人をなかなか幸せにしてあげられない歯がゆさ…。特殊な力を持っているが故の哀しみ、というのは「アブドラジャン」でも描かれていましたが、本作はそこがもっとクローズアップされた感じです。個人的には、友人の役者の恋を絡めたあたりがベタなメロドラマみたいでどうかなぁと思ったけど。当初のノリからは想像もつかない辛気臭さで、だんだん誰が主人公だか分からなくなってくるし。

といっても。いろいろぼやいてはみたけれど、この映画、充分楽しめたし、全然嫌な感じはしなかった。とにかく、おじさんがいい人だから。願いが叶うことに気づいてまずやることが、家族や友人やご近所さんの望みを聞いて回って、どうしたら幸せにしてあげられるか考えることなんだもの。あれが欲しい、これが欲しいなんてまるで頭に浮かばない。ちょっとお金も要るな、と一度はお金を出現させてもみるけれど、それだって、お祝いごとが多いからね、なんていう理由。まるっきり無欲の人なのだ。それがいかにも当たり前のように描かれていて、わざとらしさがないところがすごい。望みを聞かれた側も、お前が健康で幸せなのが一番とか、まずはお前をもてなす酒と料理が欲しいとか、普通に言うんだよ。これだけでもう、ウズベキスタンって本当にこんないい人ばっかりなのかもという気がしてしまう。ムサコフ監督も、相当いい人なんではないかと。

映画は、そんな無欲のおじさんが、自分の少年時代からの夢を実現させたシーンで終わる。初めて自分のためにした、大きな願い事。それを叶えた地で、おじさんは願う。世界平和を、と。この終わり方、普通だったらすんごくわざとらしい気がすると思うが、こんなおじさんに言われたら素直に感心しちゃうのだ。心が洗われるようで、なんだかんだ、ええもん見せてもらったなぁと。

そうそう、このおじさん、東京の地震と津波も防いでくれたらしいですよ。ほんとにいい人だ。

「トランシルヴァニア」

トニー・ガトリフ監督の「トランシルヴァニア」(Transylvania:2006年仏)を観た。

えらく濃いいもんを観てしまった。というか、聞いてしまったというか。この映画、至るところでむき出しの“生”が叫び声を上げている。慟哭、歓喜、音楽までも。

叫ぶ女、アーシア・アルジェント。大地が割れそうなほどに、激しく叫ぶ。愛する男をフランスからはるばるトランシルヴァニアまで追ってきて。失われた愛に絶望して。道で出会った少女を追って。お腹に宿した子を産み落とそうとして。ド迫力の荒々しさ、圧倒的な存在感。そのわりに、愛した相手は平々凡々な男で、これじゃあ彼女についていけずに逃げ出すよな、と納得してしまう。本作は、一応、ガトリフ初の女性が主役の物語とのことだが(一応、という理由は後述)、堂々たる主役っぷり、恐れ入りました。

そんな女をいつしか追っている男、ビロル・ユーネル。この人、めっちゃ好みなんだけど。わりと最近観たファティ・アキンの「愛より強く」は、ビロルに惚れすぎて作品がまともに観れなかったくらい。またしても、破天荒な女に振り回される役なんだけどねぇ。「愛より強く」のリスカ女は正直好かんかったが、今回のアーシアとビロルはいい。女の強さ、激しさをそのまま受け入れる度量のある男。深い孤独に共鳴し合えるふたり。

大抵、ガトリフの作品には、ロマの世界に属する者(例:「僕のスウィング」のスウィング、「ガッジョ・ディーロ」のサビーナ)と、その世界に憧れて入り込もうとするよそ者(「僕のスウィング」の僕、「ガッジョ・ディーロ」の主人公)が出てくる。しかし、その世界はよそ者を容易に受けつけない。ガッジョ・ディーロの彼のように歩み寄れる例もあるけれど、とりあえず、観ているこちらとしては、足を踏み入れようとすると目の前で扉を閉ざされてしまうような感覚がある。共感したくても拒否されてしまうような。アルジェリアのロマの血を引きフランスで育ったガトリフ自身は、両者の世界を行き来できる人物のはずなのだが、どうも、俺たちロマの世界は所詮ガッジョ(よそ者)には解らんよ、と考えている節があるような気がする。今まで、それがちょっと苦手だった。

ところが、今回の女は、フランスからやって来て、トランシルヴァニアでロマに“なる”。ガトリフの近作をいくつか見逃しているので断言はできないが、ロマに生まれずともロマになれる、という発想はこれまでのガトリフのスタンスからすると新しい気がして、興奮を覚えた。本作では、女も男も、ロマのコミュニティーにすら属することができない(ロマの少女にあっさり去られる女、ロマ楽団から諌められる男…)孤立した存在となっている。マイノリティとしてのロマに関心を寄せ続けたガトリフが、さらなるマイノリティ、究極の流れ者に目を向けたかのような。

ただし、女がロマになった時から、物語の流れは変わる。女はどこか手の届かないミステリアスな存在となり、視点は、女を追う男の方に完全に移ってしまう。(だから、女性が主人公、というのは後半になると当てはまらない気がする。)ロマの女に惹かれ、遠ざかっていく彼女を追う男は、またもガッジョ・ディーロ的な存在になってしまうようで。それは、ガトリフの中に、やはりどこか、ロマの世界をガッジョから遠ざけておきたい、という思いがあるからなのか…。

だけど、ラストシーンを見てふと思ったこと。ロマ、マヌーシュ…そもそも、“ひと”という意味ではなかったか。ならば、普遍的に捉えることも許されるんじゃないか。人は本質的に、自分の謎めいた部分を相手に見られまいと逃げ、相手の謎めいた部分に惹かれて追っていく、そういう哀しい存在であると。だからこそ、この人になら追いつかれてもいいという気持ちと、どこまでも追っていきたいという気持ちが奇跡的に重なり合う瞬間こそが、愛の成就なんじゃないかと…。

それにしても、驚きました。ルーマニアの酒場で、まさかのカントリー・ベア。

「レミーのおいしいレストラン」

レミーのおいしいレストラン」(Ratatouille:2007年米)を観てきた。

以前からぼやいてきた気がするので今さら繰り返すこともないかもしれないが、これまで私は、ピクサーの映画ってどうも共感できないところがあったんだよね。そもそも題材が、おもちゃ、虫、モンスター、魚、スーパーヒーロー、車…と見事にベタというか万人ウケ(特に男児ウケ)コテコテ路線で(次回作がロボットっていうのもねぇ)、そこまでマジョリティに迎合したらそりゃあ売れて当然みたいな気がして。しかも、主人公のアメリカンヒーローっぷりとか父性とかがいつも強調されてて。自由なクリエイティブ集団みたいに言われてるけど、やってることはけっこう権威主義的なんじゃないかと。

ところが、今回のテーマは“お料理”。あれれ?なんか感じが違いそうじゃない?主人公らしき青年も、ヒーローには程遠いあからさまなヘタレ顔。舞台はパリ。そしてお話は、ネズミ、それもマウスなんてかわいいもんじゃない、立派なラットが料理をするという悪趣味にもなりかねない設定。これはもしかすると、いつものピクサーとは大分毛色の違う、小粋で風変わりな作品になるんじゃないか?

その通りだった。

(以下、ネタバレあり)

レミーはネズミ好きの自分にとってはたまらなくかわいかったが、ダメな人にはちょっと辛いかもしれないリアルラット。そいつが一流レストランの厨房で人様の口に入るお料理を作っているんだから、一歩間違えると不快に思われそうな、際どさのあるお話なんだよね。いや、私はレミーがうちの台所に来て料理してくれるなら大歓迎だけど。(あーただ、家族連れてきちゃうのはナシね。あと、これがもしネズミじゃなくて例えば「ゴッキー(仮名)のおいしいレストラン」だったら…断固拒否してますな…。)うれしいのは、このレミーがちっともヒーロー然としていないところで、所詮は味覚が発達しすぎた変わり者のラットとして描かれてる。作り手も、ネズミがレストランで万人に受け入れられるなんて無理だと承知しているためか、お前、そりゃあラットなんだから仕方ないさね、とちょっと突き放したようなところがあって。レミーに操られるヘタレ青年が変に成長を見せたりせず、最後までヘタレのまんまというところもいいね。結末が、あり得ない成功譚に終わらず、ほろ苦さを漂わせているのもいい。なんというか、誰でもがんばれば夢は必ず叶いますと言い切る白々しさ、American Dreamなんて虚構だと今じゃみんな解っているのに映画の中ではそれにしがみついていていいと思っている鈍感さ、そういうものから解放された心地良さがこの映画にはあった。

ファストフードが、アメリカ商業映画の代名詞のように言われるようになったのはいつの頃からだろう。人間、栄養にならないと解っていてもチープで体に悪そうなものが食べたくなる時もあるから、ファストフード=悪だとは思わない。けれど、確かに、質より量で似たような大味作品が次々量産されていくにつれて、味覚が麻痺してなきゃ耐えられないようなのも増えたよね。この作品は、純然たるアメリカ商業映画でありながら、そうした風潮にきっぱりNOと言う。(さすがにダイレクトにアメリカ的なファストフードとは言わず“冷凍食品”に置き換えているが。)まあ、それだけなら今流行りのハリウッド批判の域を出ないかもしれないけど、この映画がさらにおもしろいのは、ヨーロッパの高級レストランにも同じくらい手厳しいところ。格式に頼って巨匠のレシピに従ってれば偉いってわけじゃないだろ?形だけ気取ったミニシアター系映画もつまんねーんだよ、と。だから、レミーが最終的に落ち着くのは、伝統ある一流レストランではなく、田舎臭いラタトゥイユが似合う郊外のビストロなのだ。生活感のある、親しみのこもった題材に、斬新なアレンジと遊び心を加えて。そうそう、こういう心意気からおもしろい作品が生まれるんだよね。これこそ、映画界の将来を明るくする魔法のレシピ?

作品中のお料理は、期待していたほどおいしそうには見えなかったけど(ワインだけはやたら美味しそうで飲みたくなって困った)、おもしろかったのが、映画という手段では絶対に再現できない“味”という要素をなんとか表現してやろうという試み。レミーが食べ物を味わう時にくるくる浮かぶ抽象的な光。うん、なんか解る気がするな。同じ“ものを食べるシーン”でも、味わうことを知らない大食い兄ちゃんが食べる時は光もうすぼんやりしていて、味覚って人それぞれだもんな、と納得。そして傑作だったのが、偏屈な料理評論家がレミーの勝負料理のラタトゥイユを口にした瞬間のあの反応。味わうという体験がもたらす衝撃・感動をここまで鮮やかに描ききったシーンって、映画史上稀なんじゃないだろうか。少なくとも私は初めて見た気がします。

惜しいのは、このシーン以外にセリフに頼らないで物語るシーンがほとんどなかったことで、とにかく登場人物が饒舌すぎるのが気になった。シェフのゴーストが頻繁に出てきてぺらぺらしゃべるのに至っては勘弁してよ、という感じ。それから、レミーがレストランに辿り着くまでの前置きがいくらなんでも長すぎたこととか、パリが舞台だというのにアムールの要素がお粗末だったりとか(コレットさんがいつの間にかヘタレに惚れたことになってたのが全く理解できず、私何か見逃してました?と唖然)、フランス人はあんなに銃ぶっ放すのかよ、とか、悪役料理長がイアン・ホルムというよりブシェミに見えて仕方ないとか、まあ最後の方はどうでもいいですが細かいツッコミどころは多かったな。一番ひっかかっていたのは、“Anyone can cook”というあんまりにも明快なモットーがtoo Americanで違和感があったことなんだけど、これは最後に料理評論家氏が言い直してくれたように、誰もができるということではなく(現にヘタレは最後まで料理ができない)、“A great artist can come from anywhere”という解釈なら、なるほど納得できるね。

あの評論家のおじさんは、他にもいいこと言った。ほんと、評論家なんて気楽なもんだよね。作り手の苦労も知らないで、辛らつなこと言ってればいいんだから。って、作り手側が作品の中で批評をけん制しちゃうのは禁じ手のような気もするが、尤もな意見なので、多少耳が痛いけれども素直に拝聴することにしましょう。正直言って、私は今のピクサー/ディズニー体制はやっぱり嫌いとしか言えないし(作品中に出てきた「いい素材を手に入れるには、自家製か、それができなければ生産者を買収するか」というセリフも、ジョークにするのはどうかと思った)、いまだにピクサー上層部にいい感情はとても抱けない。でも、この作品を観て、どんな看板を掲げてどんな料理長の仕切る店だろうと、出てきた料理がおいしかったら素直においしいと言いたいし、それを作ってくれた誰かには感謝したいよね、という気持ちになった。実際に厨房で作ってくれたひとりひとりの顔は見えないとしても。このラタトゥイユは本当においしかったよ、ごちそうさま。

「アートスクール・コンフィデンシャル」

「アートスクール・コンフィデンシャル」(Art School Confidential:2006年米)をDVDで観る。

たまたまレンタル店で目についたジャケット。うわ、見覚えがある!というイラストは、間違いなくダニエル・クロウズのコミックのもの。そういえば、「ゴーストワールド」の原作者ダニエル・クロウズとテリー・ツワイゴフ監督が再び手を組んだって話、大分前に耳にしてたなぁ。「ゴーストワールド」にノックアウトされた自分としては、すごく楽しみにしていたはずなのに、知らないうちに上映が終わってDVD化されていたとは…と、トホホな気分に。その後、実は日本では劇場未公開作でDVDに流れたのだと知って、さらにトホホになりました。そりゃないよねぇ。

だってすごくおもしろいじゃん、これ。

相変わらずイタい感じの人間ばかり出てきて、シニカルでちょっとグロテスクで、でもどこか身につまされるから切なくなってしまう。薄っぺらい教授役を怪演するジョン・マルコヴィッチやアンジェリカ・ヒューストンなど、俳優陣も曲者揃い。お約束的にスティーヴ・ブシェミまで、ノークレジットでちゃっかり登場。いつものブシェミっていうだけの何の捻りもない役なんだけど、いるだけでなんか得した気分にさせられるところがやっぱりブシェミ。ストーリー展開もしっかりおもしろくて意外性があって、痛烈にブラックな結末に唸らされる。美術学校を舞台にした本作、アートって一体何だよ?というテーマも実は真面目に掘り下げられていて、反芻すればするほど考えさせられるんだよね。

それにしてもダニエル・クロウズ、よっぽど美術学校にトラウマがあるんだろうな。「ゴーストワールド」でも、勘違いはた迷惑系な美術教師と主人公イーニドの挫折が苦々しく描かれていたけれど、今回の美術学校の真に迫った(と思われる)描き方ときたら。自分の世界にのめり込み放題な学生に、いいかげん極まりないボンクラ教授。アートだ何だと言っても、評価されるかどうかはコネとツキの問題。たまたま成功してネームバリューの出た人間は、途端にふんぞり返って嫌な感じ。世渡りが下手な自分はいつも評価の対象外、どう見ても下手クソなだけのあいつの絵が付和雷同的に絶賛される。こんな世界で大真面目にゲイジュツなんて志してたら、そりゃあ気が狂うかもね。実際に美術学校の経験のある人が観て、どう感じられるのかは分かりませんが。

美術のことは知らないけれど、学校っていう閉鎖的で内向きな空間は、多かれ少なかれ不条理で不気味な所かもしれない。自分も大学では何かとイタい集団に属していたから、この映画で描かれていることに、懐かしく苦々しい思いがしたよ。そういえば覚えがあるなと。授業そっちのけで自分の売り込みばかりしてる無責任教授とか、教授同士のよくわかんないライバル意識とか。学生も、自称学生作家とか、前衛アーティストとか、評論家気取りとか、おべっか使いとか、留年が趣味なのとか、いろいろいたな。何のリサーチもしてない的はずれな論文が「斬新な発想だ」とか絶賛されてて、はぁぁぁ?と思ったことも確かにあった。蘇ってくるイタい記憶。

そんなわけで個人的にも大いに親近感を持ってしまったこの作品だけど、どうやらアメリカ公開時に評価が激しく割れたみたい。(その結果の日本未公開?)どういうわけかとIMDbの感想などをちらっと見たところ、この映画がおもしろくないという人って、“どう見ても下手クソなあいつの絵”が本当のアートだって主張してる人が多いんだね。そうか、そう見えてしまうなら確かに致命的だな。単なる素人の稚拙な絵がアートとしてもっともらしく持ち上げられてしまういい加減さ、どいつもこいつもわかったようなこと言って、なーにがアートだよ!というのがこの話の肝の部分だと思うので。(実はあの絵、ダニエル・クロウズが美術学校時代に描いたものらしいというのがまた自虐的で笑えるんだけど。)あの絵は素晴らしいアートだから皆が褒めるのは当然で、本当のアートが解ってないのは主人公の方だ、と解釈してしまうと、確かにこの映画はつまらないかもしれないね。そして、そう思う人がいても仕方ないというところが、アートという概念の曖昧さであり難しさであって…。うーん、やっぱりこの映画の提示している問題は深いのだ。

(以下、結末のネタバレ含む)

私がひとつだけ気になったのは、ラストシーン。偽アーティストだったあいつの絵に熱を上げていた自分の浅はかさに気づき、本当に心に残る絵を描いてくれた主人公ジェロームの元に戻ってきた彼女。彼女の動機はジェロームに伝わったのかしら。その辺のフォローがなかった気がしたので、もしも彼が、世間と同じように彼女も自分が突然有名になったから戻ってきたのだと思い込んでいたら辛いなと。ブラックな結末でも、あの微笑みとキスだけは、ちゃんと彼女の気持ちが伝わった結果なのだと思いたい。

結局のところ、世間一般にもっともらしく支持されるより、たったひとりでも自分のアートを心から理解してくれる人がいる方が幸せなことのような気がするから。


アートスクール・コンフィデンシャル アートスクール・コンフィデンシャル
マックス・ミンゲラ、ソフィア・マイルズ 他 (2007/04/18)
ソニー・ピクチャーズエンタテイメント

「街のあかり」

アキ・カウリスマキの最新作「街のあかり」(Laitakaupungin valot:2006年独仏フィンランド)を観てきた。

…。終わった後、思わず映画の登場人物並みに無口になる。どうしてこんなに、たまらない映画なんだろう…。

(以下、少々ネタバレあり)

「浮き雲」「過去のない男」に続く“敗者三部作”のラストを飾るに相応しい、負け犬映画。主人公の負け犬っぷりときたら、ちょっと前例が思い浮かばないくらい完璧なものでした。アキの映画に出てくる顔は、大抵いつも幸薄そうだが、この主人公に限っては、薄いなんてもんじゃない。幸が全くない。あんた、顔に“負け犬”ってでっかく書いてあるよ、と教えてあげたくなるほど。ついでに背中にも“負け犬”って書いた紙を貼られてて、しかもこっちは本人気づいてるのに手が届かなくてはがせない、そんな感じ。だって、数回会った女がおもむろに口を開いただけで、自分から即「別れ話か?」とか言っちゃうんだよ(→しかも的中)。あんた、それが負け犬なんだよーって。もどかしいったら。

そんな負け犬に、不幸が襲い掛かる。次々と。まるで「マッチ工場の少女」並みに悲惨な展開なのだけど、あの少女の場合は、不幸を突き抜けたような潔さがある種の救いになっていて、観ている方も思わず笑っちゃうことができた。今回の負け犬氏にはそんな余裕すらない。かつてのマッチ工場の少女ことカティ・オウティネンが、ハードボイルドな無表情で負け犬氏を見つめるカメオ出演シーンがあるのだけど、そのまなざしが「あんた、まだまだ甘いわね」と言ってるみたいな気がしてしまった。

そんなカティ・オウティネンも「浮き雲」では粘り強く成功を手に入れたし、「過去のない男」も、どん底の生活でも希望を失わず積極的に生きていた。「街のあかり」の負け犬氏も、基本的な姿勢は彼らと変わらない。起業しようなどという無茶な夢を抱いてあれこれ努力はするし、どんなに裏切られても愛した女をかばい続けるし、どんな不運に見舞われてもめげたりしない。なのに、前二作と決定的に違うのは、何ひとつうまくいかないというところ。これはいったい、どういうわけなんでしょうか。

考えてみると、「浮き雲」「過去のない男」は、アキの映画にしてはずいぶんハッピーな展開だった。(そのハッピーの度合いが、一般的な価値観よりはだいぶ低いところにあるとしても。)苦境でもポジティブに生きる主人公の、サクセスストーリーと言ってもいいような感じで。だからといってそれは、アキ・カウリスマキが若い頃よりこの世の中に対して楽観的になったとか、そういうわけではないように思えた。むしろ、悪くなっていく一方の世界で、映画の中くらいは理想的な展開で人々に希望を与えたい、そんな切実さからくる、わざとらしいまでの明るさのような気がした。とすると。今回の、あまりにも救いのない展開は、一向によくならない理不尽な社会を見据えたアキの、一層切実な思いから来ているような気がするんだよね。

現実には、この主人公みたいな状況は稀かもしれない。これはあくまでもフィクションであり、ファム・ファタールやらマフィアやらの出てくる映画的な物語だから。でも、ここまで特殊じゃなくても、私たちの生きる現実に、似たような理不尽はたくさん転がっているんじゃないかと。これをひとつの極端な例え話、寓話として見るのなら。過酷な競争社会で、切り捨てられていく愚直な人間。やせ細った犬のように、ひどい仕打ちにも従順に耐え、辛抱強く生きるしかない。耐えられなくなって反抗心のかけらを見せたところで、すぐに叩きのめされる。それでも、なんとか生き続ける。負け犬にだって、意地がある。

踏みにじられても雑草のように生きていく、負け犬の現実。そこにドラマチックな成功や幸運が訪れることは、たぶんないのだろう。それでも、決して絶望することはないよ、とこの作品は言ってくれているようで。握った手のほのかな温もり。朝の薄い光。ささやかな、吹けば消えてしまうような灯であっても、それを支えに人は生き続けることができるのだから。もしかしたらこれは、厳しい現実を生きる負け犬に共感を寄せ続けたアキ・カウリスマキが辿り着いた、究極のオプティミズムなのかもしれない。

あのソーセージ屋のおねえさんとパユがいれば、どんな世界でも生きていける気がしてきます。
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